EVIDENCE
証言者たちが語る
ペンタックスが人びとから愛されてきた理由とは。
どのようなブランドとして認識され、何がファンの心を引きつけてきたのか。ペンタックスの歴史についてよく知る、ふたりの人物にお話をうかがった。
国産初の35ミリ一眼レフ国産初の35ミリ一眼レフカメラを発売したメーカーとして、多くのファンから愛されてきたペンタックス。そのファンの数だけ、さまざまな思い出やドラマが存在します。今回、ペンタックスとの思い出について、写真家の飯田 鉄氏と、リコーイメージングスクエア銀座の池永一夫氏にインタビューを実施。長らく製品を愛用してきたふたりだから話せる、とっておきのエピソードを語っていただきました。カメラを発売したメーカーとして、多くのファンから愛されてきたペンタックス。そのファンの数だけ、さまざまな思い出やドラマが存在します。今回、ペンタックスとの思い出について、写真家の飯田 鉄氏と、リコーイメージングスクエア銀座の池永一夫氏にインタビューを実施。長らく製品を愛用してきたふたりだから話せる、とっておきのエピソードを語っていただきました。
写真家 飯田 鉄
リコーイメージングスクエア銀座 池永 一夫
おふたりにとっての、思い入れのあるペンタックス製品
- 飯田
- 池永さんにとって、思い入れのあるペンタックス製品といえば何になりますか?
- 池永
- まず思い浮かぶのは、「アサヒフレックス Ⅰ」型です。自分と生まれた年が同じなので(笑)。
- 飯田
- さすがは池永さんですね(笑)。私のほうは、「アサヒペンタックス SV」。人生で初めて手にした一眼レフです。
- 池永
- SVの“V”はドイツ語でセルフタイマーを指す「Voraufwerk」から名付けられた機種で、ペンタックス初のセルフタイマー搭載機でしたね。1962年に、S3をベースに改良を加えて発売したモデルで、あのポール・マッカートニーにも愛用されたモデルです。
- 飯田
- そうそう、確か標準レンズはタクマーの55mm F1.8で。28mmのF3.5という前玉が大きい交換レンズもあって。自分の兄が使っていたものを、無理を言って譲ってもらったことを覚えています。社会人になってからは、「Kマウントシリーズ」。シリーズの発売当初、仕事で作例を撮影させてもらったこともありました。あとは、「ペンタックス ME スーパー」や「ペンタックス 645」、「ペンタックス 6×7」など。どれもレンズとともに、仕事で愛用してきました。
- 池永
- “バケペン(「ペンタックス 6×7」の愛称)”懐かしいですね。発売当初はそう呼ばれていなかったのですが、いつの頃からか35ミリ一眼レフと比べて化け物のようなサイズということで、そう呼ばれるようになったとか。
- 飯田
- 写真の学校で教えている私の生徒たちのなかにも、バケペンで撮影に挑む生徒が今でも見られます。ネガカラーのフィルムを入れて標準レンズ一本で頑張っている姿を見ると、感慨深いものがありますね。
- 池永
- 実は私も、大学の時にラボでアルバイトをして、この機種を買ったことがあります。昭和47年頃だったでしょうか。
- 飯田
- 出て間もないですし、高価なカメラですよね。よくアルバイトで予算を貯めましたね!
- 池永
- どうしても欲しくて(笑)。撮影していると、知らない人から「それ、6×7ですよね?触らせてもらってもいいですか?」なんて、声をかけられたほど。取り寄せをしたお店へ買いに行ったときなんて、店員さんが箱から出して大騒ぎしていたほどですから。俺が行く前に箱から出すなよ!って(笑)。
- 飯田
- 当時は持っている人も少なかったですからね。それだけ珍しいカメラでした。
ペンタックスの歩みのなかで、特に印象深い出来事
- 池永
- 「Kシリーズ」が発売された1975年のことはよく覚えています。3台同時に発売された「アサヒペンタックス K2」、「KX」、「KM」に採用された「バヨネット(Kマウント)」は、これまでねじ込みのスクリューマウント製品を愛用していたファンにとって大きな衝撃でした。一気にマウントの規格が刷新された訳ですからね。当時入社2年目だった自分も、お客様からそのことについて叱られて、店頭で謝った思い出があります。
- 飯田
- マウントの規格を変えるということは、大変なことですからね。
- 池永
- 多くのファンから声があがるということは、ありがたいことでもあります。それだけ注目していただいていたんだなぁと。
- 飯田
- Kマウントレンズを、その時代に一般的に使われていたねじ込み式の「M42マウント」に対応させる「マウントアダプター K」なども早々に発売されていましたよね。旧モデルのユーザーに対しての配慮も、しっかりしていたんだと思います。「アサヒペンタックス(AP)」が登場した際も、「アサヒフレックス」とはスクリューマウント同士でも規格が異なるということで、レンズ互換用のアダプターリングが用意されていたというのを聞いたことがありますし。昔からファンへのケアを怠らない優しさが、またファンの心を掴んできたのではないでしょうか。
- 池永
- 互換性や一貫性という点については、極めて大きな配慮をしてきました。そのこともあって、業界では後発となりましたが、結果として現在も「Kマウント」の規格を変えることなくやってこられました。
- 飯田
- 現在のデジタル一眼レフカメラにおける「Kマウント」までを換算すると、登場から40年ほど経っているのは驚きです。
- 池永
- 弊社の製品は10〜20年と、比較的長寿命の物が多いのかもしれません。先に挙げた「ペンタックス 6×7」もそうですが、スタイルを変えずに作り続けてきたことが評価されて、当時の通商産業省から「ロングライフデザイン賞」をいただいたこともありました。
- 飯田
- 商品サイクルが早くとも非常に統一感があって、変わらないまま進化を続けているような。そういったところがペンタックス製品の魅力なのかもしれませんね。
ペンタックスならではの魅力と、今後期待すること
- 池永
- ペンタックスは製品の良いところを変えずに、変えるべきと判断した部分は思い切って変えるといった製品開発を行ってきました。将来的なことを見据えて、「Kマウント」への移行を思い切ったことは、まさにその代表。カメラ業界においてスクリューマウントで自動露出や開放測光はできないだろうと言われていた時代に、「アサヒペンタックス SPF」や「アサヒペンタックス ES」でそのことを実現してきたわけです。そういった意味では、技術力が高いメーカーであったと言えるのではないでしょうか。
- 飯田
- その時期、レンズの世界においても重要な出来事がありましたね。
- 池永
- 多層膜コーティングの「SMCレンズ」の登場ですね。この技術も、写真の表現を大きく進化させた技術だと思います。
- 飯田
- レンズ枚数の多いズームレンズが注目され始めた時代には、レンズにコーティングをかけることで透過率を上げるというのは、かなりエポックメイキングなことで衝撃を受けました。あまりに革新的な技術であったため、カメラファンの間では「カメラを選ぶなら、ペンタックスがいいね!」という流れすらありましたから。
- 池永
- フィルムに対する色のコントロールや再現性についても、かなり自由度が高くなったこともあり、日本の光学技術のレベルが一段蹴上がった時代でもありましたね。「SMCレンズ」のマルチコーティングに関して言えば、アポロ宇宙船の窓に施されていたコーティングを応用したものなんです。宇宙開発のようにコストがかかる技術を撮影レンズに用いたということは、業界全体でもかなり突飛なこと。効果に対してかかるコストを揶揄して、関係者から「大砲で雀を撃つのか」という例えすら上がったほどです。
- 飯田
- まさにオーバースペックというやつですね。
- 池永
- その後も、開発の現場にスーパーコンピューターや3Dプリンターをいち早く導入するなど、新しい技術をすぐさま取り入れようとする姿勢が強い。そういったハングリーさが魅力であり、まだ見ぬ技術の開拓の糧となってきたのではないでしょうか。
- 飯田
- カメラ本体における日本初・世界初といった部分を欲しいままにしてきたイメージが強いですし、やはり貪欲な探究心があるからこそ、高い製品クオリティーが保てるのでしょう。レンズにおいてもそう。何せ、デジタルカメラ全盛期の現在もフィルム時代のレンズがそのまま使えるんですから。デジタルに切り替わった当初はセンサーとの相性などいろいろと不安でしたが、今のデジタルカメラではその心配は無用。長生きして良かったですよ(笑)。だから、過去のレンズが再評価されてもいいと思う。最近だとフルサイズセンサーによる超解像といった考えが当たり前ですが、オールドレンズとの相性においても発見があると、私は期待しています。画角に関して、APS-Cサイズのセンサーに比べると同じ画角でも焦点距離が長いので、空間の捉え方とか被写体の浮き上がりが全然違ってくる。そういった意味でも、ペンタックスのフルサイズは気になる存在です。新たな描写力が生まれる日が、いまから待ち遠しいですね。
PROFILE
-
- 飯田 鉄/いいだ てつ
- 1948年生まれ。東京都足立区出身。1970年代より、銭湯や味わい深い路地といった都市環境を収める写真家として活動。1987年度日本写真協会新人賞受賞。
-
- 池永 一夫/いけなが かずお
- 1952年生まれ。大分県大分市出身。1974年に旭光学商事株式会社へ入社。
現在はリコーイメージング株式会社リコーイメージングスクエア銀座に勤務。